Fuji, Hiroshi Information

  geco.jp 藤浩志の活動を紹介し、リンクするサイトです。 

 

  藤浩志による藤浩志と表現活動についてのメモ 藤 浩志(フジヒロシ)
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 

芸術とは何か?・・・だとか、人生とは何か?だとか・・・

何か?を限定した段階で、・・・モノゴトを認識した時点で無限だった可能性は限定される。

なんでもないがものすごく可能性のある状態にあるものがいい。

果てしなく探求され続ける価値観。それを具現化する術。とでもしとこうかな。(2009・藤浩志)

終わりなく

「自分はもうすでに存在していない。」

2004年インドネシアスマトラ沖地震による津波で大きな被害をうけた村に戻ってきた女性が語った言葉である。

彼女が出かけている間に街は津波に襲われ、自宅も家族も職場も街も思い出もすべてを失った。

関係の深かったものすべてを失った瞬間に彼女は自分の存在のよりどころを失ってしまったのだという。

「このまち関係ないとこ、多すぎ!」

福岡のある地域で街についての意見を集めていたときのこと。

いまどきの女子中学生が私に嘆いた。

その子どもにとって自分の暮らす地域は「関係がない」ところばかりだという。

この二つの言葉は私自身の心に深く刻み込まれ、近年の活動に大きく影響を与えている。

「どのように関係するのか」という関係性が、「どのように存在するのか」という存在性と深く関わっていることを知る大切な言葉である。

いくらそこにあっても、関係がなかったら存在しているとはいえないことを確認させる証言でもある。

近隣には多くの人が住んでいる。

地域の文化や伝統や歴史の上に「今」は成り立つ。

人々は何らかの形で企業や組織に属している。

自然環境は過酷な状態で変化しつつある。

しかしそこに興味・関心を注ぐことのできる深い関係をつくりえないとすれば、その存在はすでにない。

周りの存在がすべてなくなるという感覚は、自分自身の存在をも否定する感覚へと繋がる。

自分の存在に疑問を持ち、苦しみ、消去させたいとさえ願ってしまう。

自然災害により自分の存在を失ってしまった不幸にせよ、周辺環境からの関係の拒絶によって存在を失ってしまう不幸にせよ、問題は周辺環境を成立させているシステムにある。

そのシステムの不都合に触れ、修正しようとし、そして、そこから先に新しい関係性を作り出そうとする態度に鍵がある。

彼女達が新しい信頼できる関係性を獲得し、関係が関係を連鎖させ、多くのものごとに繋がり、存在を実感できるにいたるプロセスが大切なのだと思う。(藤浩志)

2009年 福岡アジアトリエンナーレカタログへの文章より

 
 

33年=1世代 
66年=2世代 99年=3世代
人は3世代前のことをちゃんとイメージできない。

例えば、3世代前、99年前の
合計8人のひいじいさんとひいばあさんの
それぞれの活動の遺伝子を受け継いでいるが、
そのそれぞれの名前すらいえないし、
何をやっていたかを知る人は少ない。


同時に、99年後の世界・・・
2106年の頃のイメージを持てる人は少ない。

つまり3世代以降は永遠とされてきた。

の回りに潜在する社会システムの些細な違和感に対峙し、みつめ、抽出し、触れ、いじり、表現することは、輸入されたアートシステムの、真っ白に整備されたフォーマットの上でアートを振舞うよりも、刺激的で興味深い活動であるに違いない。

そこには必ず登場人物・縁者・法律や規則・マナーや風習・歴史やいわく・意図や思惑が混在し、予想不可能な展開が待ち構えている。予期せぬ連鎖が始まる可能性が秘められている。

アートシステムの側から街との関係を少し乱暴に捉えるならば、80年代を空間の時代、90年代を場の時代、2000年以降をシステムの時代といえるのではないかと思う。

美術活動が閉鎖されたアートフレームの中から逸脱を始めて以降、空間としての街に飛び出していった活動は、場と関わる活動に変化し、そして街に内在する様々なシステムに関わる活動へと変化してきた。

実際に政治システムや経済システム、流通システムなど生活周辺のシステムを扱う作家の活動を、もはや空間の問題として、あるいは場の問題として語ることは難しい。

そして、空間や場もシステムの上に存在するという事実と同様に、美術システムもまた社会システムの上に成り立つということも認識され活動は変化する。(藤浩志)

2009年 福岡アジアトリエンナーレカタログへの文章より

 

つくること

つくることはつかうことの延長にある。

つかうことが大切で・・・

つくることを目的にするのが間違いなのではないか? 

つかっているうちにつくられる。

その自然なありかたがちゃんと理解されていない。

つかうことが大切!

しかし、そのまえの状態がさらに重要であると思うようになってきた。

つかうことの前の状態。 

つまり…

さわること。いじること。あそぶこと。

これらの行為は子どもの頃、「怒られそうな」ことだったかもしれない。

大人の価値観が介入し、奪われがちな行為。

「さわり、いじり、あそび、」

その先につかうという行為があり、

過剰につかわれる延長に、結果として何かがつくられるのじゃないかな。

2007/12 藤浩志

年後の自分が何をしているのか
予測不能な状態にどこまでつくれるものなのか・・・?
それが魅力的な難題に思えた。


現在何を行うかが次の瞬間の自分のベクトルを作る。
現在の行動によって次の瞬間、ある事実が発生する。
しかし、その事実はその瞬間を過ぎたと同時に過去の出来事となる。

過去のできごとは意識の中で反復し思い起こそうとするか、
なんらかの記録として意識化しないかぎり、記憶の中から消えてゆく。

過去は目の前に広がる風景の向こう側の
霧の中に消えるように消滅してゆく。

 

2009

 

自分をかえる手法

場所をかえる
人の関係をかえる

環境をかえる 関係をかえる

憶のはじまりは意識化であり、
意識化のプロセスが記録となり残る。


意識の中から消えた出来事は事実として存在するのか?
事実は記録の中にしかないのではないか? 
記録外の事実があるとすれば意識の中にある。
意識を表現するとき、なんらかの記録がなされる。
記録されるプロセスにおいてなんらかの編集の意図がはたらく。

記録のメディア自体があるシステムによってつくられたもの。
そのシステム上でしか記録は残らない。

 

 

 

記録が記憶をつくる
記憶が次の意識をつくる
意識が活動をつくる
 

 

 
関係者がいるのかいないのか?

関係者における意識と記録の問題
 

のシステムを記録の媒体としてつかうか。それにより記録がかわる。
誰に対しての記録であるのか・・・ それにより記録がかわる。
 

だれが何を読み取ろうとするのか・・・
それによってはじめて記録による事実が発生する。

記録された事実は媒体の寿命とともに活き続ける。
それを受け取る人にイメージが与えられ、そこに事実が発生する。

そこで、事実は更新される。
更新され続ける事実のみが永遠とされる。 


そんなプロセスの実験とも言えるこのサイト・・・。
結局、こうやって記録された所にしか
フジヒロシは存在しなかったことになる。

とりあえず・・・

2005/12 藤浩志

  げこげこ!

 


例えば

術とはなんですか? という質問に対して

美術とは「美しさ」を作り出す芸術ですよと答える。

芸術とは技術。とびぬけた技術。

じゃあ、美しさはなんですかという質問に対しては

美しさは価値観を意味します。と、まず答えるかな。
価値観が100人100様であるように
本来、美しさも100人100様。

じゃあ、僕自身、何を美しいコトとするかに対して

社会的になにも価値なないとされているモノ、価値を認められていないコト
や意識など、むしろ低く捉えられている存在が、あるエネルギーやある技術によってなにか特別な、すごい状態に変化するその瞬間! 

そのエネルギーのありようや変化の様、姿、態度をもって「美しい」とする。

と答えるのかな?

それに関わる常識を逸脱した技術が「美術」というふうにとらえています。

2006/1 藤浩志

 

 

 

 


年、1年が短くなっているように感じていた。最近は5年が短い。

1年の価値=1/年齢

生涯のうちの1年間という価値は生きてきた年齢分の1になるというあたりまえのこと。
(1990年ごろ話していたね)

 
 

つくることにだまされず

ただ、いじる。ただただ、向かい合う。手を入れる、手をあてる。
そのうちその結果、何かよそうもしないものとの出会いがある。
それがつくろこと。

作ろうとすることは、何かのイメージにむかうこと。
イメージを超えた存在と出会うためには、つくろうとせず、
ただただ向かい合いこと。いじること


その向こう側にしか、予期せぬ感動はないんじゃないかな。

 


1960年に生まれた僕自身、常に多くのモノを消費するように仕組まれた高度経済成長被害の被災者であり、常に勝ち負けのゲームで勝者になる喜びの為に努力してしまう受験戦争の被災者でもある。

僕が生まれて死んでゆく20世紀後半から21世紀前半は、大量のポリ・プラスチックで虚飾された新技術・新製品という餌によって人間の活動が活発になる一方で、数世代も引き継がれてきた大切な素材やシステムが解体されつつある時代でもある。

そのような日常への深い違和感の蓄積と浸透が僕自身の活動の中心にある。

その最中で、そのような現実を嘆いてばかりいるのでもなく、ただ受け入れるのでもなく、慎ましくも積極的に、今・ここでしかない様々な状況を深く楽しもうとする貪欲さ。そこから先に何かもっと素晴らしい新しい価値観が立ち上がるのではないかなと信じているように振舞いながら…。

そんな感じかな…。

(中国シンセンでの展覧会のためのコメントより Fuji, Hiroshi 2006/06)

 
1997nenn  


 

そう。何かをつくるということは、
何かができつつある期待感をつくるということであり、
何かができる期待に満ちた
(満ちたというほど満ちていなくてもいいのだけれど・・・)
そんな時間をつくるということだということを再確認する。

 
   
   
     
     
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